2013年5月18日土曜日

長崎をぶらり散策 ⑭ 日本で最初の黄檗禅宗の寺院「興福寺」

崇福寺を出た後、寺町周辺を徒歩で散策した。この辺りは、狭い路地で緩やかな坂道が続き、多くの寺院が立ち並ぶ、とても閑静なところだ。1km程歩くと、次の目的地「興福寺」に着いた。朱色の立派な山門だ。朱色の山門から「あか寺」と親しみを込めて呼ばれているそうだ。これまでに訪れた、ほかの唐寺と並んで、「長崎三福寺」の1つとされる。日本で最初の黄檗禅宗の寺院。開祖である隠元禅師を中国から招請したことで有名。1632創建。現在の建物は明治16年に再建されたもの。



  

山門をくぐり境内に進むと見えてきたのは、鐘鼓楼。二階建てで、上階に梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂のようだ。四方を丸い窓で囲んでいるのは、梵鐘、太鼓の音を拡散させるためのようで、これは先ほど訪れた崇福寺の鐘鼓楼と同じつくりのようだ。軒廻りに施された彫刻が美しい。



 

つぎに見えるのは、本殿である「大雄宝殿」。国の重要文化財になっている。正面に掲げられている扁額は隠元禅師の筆によるものとされる。ご本尊は釈迦如来。内装及び外装は、明の時代の中国建築の様式をとり、使われている資材もなんと中国から運んできて組立てたそう。柱や梁に施された鳥獣や花の彫刻がすばらしいと思った。





この門は、もともとここにあったものではないようだ。儒教の祖「孔子」を祀る聖堂。東京の「湯島聖堂」佐賀の「多久聖堂」についで長崎にもあった「長崎聖堂」その遺構である門を移築したもの



こちらの門は、「三江会所門(さんこうかいしょもん)」と呼ばれる。「三江」とは、中国の江南、江西、 浙江の3省をさす。これらの地域の出身華僑が、明治11年(1878)に「三江会」という同郷組織をつくり、三江会所が建てられたそうだ。残念ながら主屋は原爆により大破して、今は無くなってしまったとのこと。門だけが残っている。中国の映画やドラマによく出てくる民家のつくりにそっくりだ。敷居のところの段が高くなっているのはなぜだろうと思ったら、これは、豚などの家畜が門内に入らないようにするためだという








 
黄檗宗開祖である隠元禅師。仏教以外でも色々なことを日本に伝えたとされる。例えば、「丸いテーブル」江戸時代の当時は、食事をする際、身分ごとに決められた位置で食事を取るというのが日本の慣例だった。身分に関係なく「テーブルを囲んで皆で食事を取る」という慣習は、今でこそごく普通だが、当時の人にとっては画期的なことだったといえるだろなと思った。食材や料理の分野においても、いんげん豆・もやし・西瓜・レンコン・落花生・なす・孟宗竹・胡麻豆腐・けんちん汁などを伝え、広く広まったとされる。また、書・絵画・建築・印鑑など多くのものが伝えられた。仏教といえば、「精進料理」がつきものだが、黄檗宗では「普茶料理」と呼ばれ、日本の精進料理とはかなり異なり、中国式精進料理といえる。

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